昭和48年08月20日 佐田家 霊祭



 子供が助かり親が助かり、もうどんなに親が、幸せそうな環境にあっても、子供に例えば難儀な子供があり、困った親不孝な子供がおった。親が助かるというのじゃない。子供が助かれば親が助かる。子供が足すかりゃ、親先祖が助かるという、もうその一語ですね、今日のお祭りは。お婆ちゃんが例えばの思いと言うか心と言うかを、まぁ私が代わって代弁するなら。本当に私ほど幸せな者はあるまいと思いますと言う事じゃなかろうかと思いますですね。
 本当にご神縁を頂いて、金光教という有難い尊い信心を、しかもまたとなかろうと思われる、合楽教会にご神縁を頂いて、又とござらんと思う親の言いつけを頂いてね。とても家の良かごたる家のごたる良か息子、良か嫁御は他にはおるまいという孫達の上においても、もう本当に私どんが孫には、良過ぎると言う様な、中々経済の上にももう健康の上にも恵まれておかげを受けておる。もう本当に私ほど幸せな者はあるまいと、まぁ私が申しました様な事が、お婆ちゃんの心の内容じゃなかろうかと思うですね。
 ですからこれで、御霊様のお祭り御霊様の喜び、御霊様の助かりが出来ないはずがない。どんなににぎにぎしく例えばお祭りをした、ご法事をしたと言うても家庭の中に不和があっては、第一自分の子供が本当に、私のごたる業なもんがあろうかと、私のような不幸せな者があろうかと言う子供がおって、その子供が如何に麗々しゅうお祭りを仕えたところで、親の喜び御霊様の喜びのことがあろう筈がないです。
 もう子供の助かりが、そのまま親の助かりだと言う事が分かります、如何に例えば今日のお祭りが思いを込められて、その思いがまた神様にも通い、御霊様にも通うておるかと言う事がです。今日あの夕べですか、佐田さんなら別に式年のお祭りと言う訳でもないからお装束替え、仏教で言う所の心のおかげですね。( ? )親は良かじゃろうと言う様な内々話をしておる、所がおばあちゃんが悔やまれた所に現れたのが、やはりそうもう本当に着替えさせなければおれないと言う、お夢を頂かれたとこういうのです。
 私の事をきっと佐田さんから、お装束替えのお供えがあったと聞かせてもらいよりましたら、神様から林だと言う事を頂いた。林と言う事は木が二つ書いてある、田と言う事は田んぼの田と言う事、林と言う事は心が二つ、御霊も助かるならそれをお供えする方も助かる。真心とはそんなもんです。御霊様も喜びなさろうから、と言う時には自然に御霊様が喜びなさろうからと思う。
 私共も助かるのです。素晴らしい事ですね。本当に子どもの助かり、そのまま親も助かりそこで(?)の助かりの内容というものを私は申しました。私の様な幸せ者はあるまいと、真の信心を分らしてもろらえ、真の信心を教えてもらえ、しかも自分の周囲点に恵まれて、親先生のおかげ。これも金光様のおかげと、これは日々の私しゃ佐田さんのお届の中から、そう感じるです。
 私の言う(?)じゃなかろうかと言う事になら、(?)の事だと思わせて頂く、そこでこれからとてもいよいよ助かって行かなければならない事にと言う事はね。んなら(?)(?)風呂に入っている様な事(?)様なやっぱり起きて来る日常の中には、痛い事もあり痒い事もある、どうしてと言う様な事も起って来ることはないけれども、私共がどんな場合であっても親愛の中にある、お神様のなかにある、神様がこの様にしていよいよより(?)して頂くと私共は(  ?  )合楽である。
 先程愛子が、村内の寄りがあって是非大事な田だから愛子が出席しとります。3時になっても帰って来ません、電話しようかと言うたらもう間に合うごと帰って来、3時というところへ帰って来た、今日の村内の会合の話をして頂いたら、今日は久留米から市議会議員さんが見えて、ここの左側通りがバイパス道路になる。4m巾の道路になるそれで田んぼをずうっと、削らんならんからもうそれは出来ません、てんでゴーゴーで何時間経っても(?)さんと(?)とうとう市会議員さんも、ごうをにやしてからね。
 あんたどんはどげん言うたっちゃもう3年の内にゃなってしまうと言うて立ち上がられたと言う。それであげん言うとならどんこん仕様んなかね、やっぱもうそんならそげんするごつにせざこて、言う話があったそうですけれども。あの金光様だけは掛らんと言う事です。もう金光様の場合はもうほんのぎりぎりだそうです。私しゃそれを聞かせて頂いて、始めて6年前の事を思うん緒です。
 村内の人達がもうそれこそもうやかましく事で、も、内ちゃ二尺なん寸くらい向こうにまだ広げて良かとです。それはおかしいです、上から流れて来る水はこんなん向こうに流れてる方もこんなに、ただ合楽教会の横だけが(?)広々とさせられた、だからほんなこて村内の人達ばっかりは、ろくな奴じゃなかて言うとったけれども、5年後になってみてはぁこうする事のご神意の深さに驚くじゃないですか。
 そりゃ成程是だけのながさの所、二尺何寸もずうっと(?)けれども、それは削られて取られたらこりゃもうすのごとですから。もう一事が万事そうです、合楽でおかげを頂いている人は、どうしてそげなことと言うて、その時血も涙もでるごたるけれども、本当言うたら有難涙がこぼれるごと、有難いことを基を言うたらもう5年前に神様がそうさせておられる。村内の人達を使うて、村内の人達も一言もなかね。
 あすこはもうぎりぎりのところで、あすこはもうどう扱わんで良か、勿論右左に広がって、そういう事から思うても私しゃね。どうしてと言う事はいらん又そう思う時にはこれによって分らして下さる、これによって磨かして下さると言う、この様にしてと言うだけしかない。それが助かった人の内容じゃなからなければならんと思うです。いよいよそういう助かりをいよいよ助かるところに、これは親先生に約束された様なもんです。
   どうぞ。